東京五輪1964参加国の真相|全93カ国とボイコットの歴史的背景
1964年(昭和39年)10月10日、秋晴れの国立競技場に響き渡ったファンファーレとともに開幕した第18回夏季オリンピック東京大会。アジアで初めて開催された平和の祭典は、日本の戦後復興を象徴する歴史的モニュメントとして語り継がれています。しかし、華やかな開会式の舞台裏では、激化する東西冷戦や植民地支配からの独立運動といった世界規模の地殻変動がダイレクトに影を落としていました。
当時、国際オリンピック委員会(IOC)に加盟していた国と地域のうち、なぜ一部の国は参加を阻まれ、選手村に到着しながら開幕直前に去らざるを得なかったのか。公式記録に刻まれた全93カ国の内訳から、除外・ボイコットに至った国家間の対立、さらには冷戦の分断を乗り越えて結成された「東西統一ドイツ」の奇跡まで、多角的な取材データと史料をもとに激動の真実を掘り下げます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:1964年東京五輪の公式参加国数は全93カ国(選手数5,151名)。開会式直前のボイコットや棄権などにより、当時のIOC加盟117カ国・地域のうち23カ国が不出場となった。
- 要点2:人種隔離政策(アパルトヘイト)固執による南アフリカの資格停止、および新興国競技大会(GANEFO)処分に反発した北朝鮮・インドネシアの開幕直前ボイコットが最大の激震となった。
- 要点3:ベルリンの壁建設後も奇跡的に実現した東西統一ドイツ選手団や、独立を果たしたアフリカ新興国の初参加、五輪史上初の五十音順入場行進など、平和への祈りと政治的摩擦が交錯した大会であった。
【全93カ国の一幕】東京五輪1964の参加国数と公式記録の全貌
東京オリンピック1964の参加規模を読み解くうえで、まず押さえるべきは「公式参加国数は93カ国・地域」という事実です。大会組織委員会の公式報告書や国際オリンピック委員会の記録によると、参加アスリート総数は5,151人(男子4,473人、女子678人)、競技数は19競技163種目に及びました。
ただし、当時の世界情勢において1964年東京オリンピック加盟国数(IOC承認国)は117カ国・地域に達していました。つまり、差し引き24にのぼる国や地域が本大会のピッチに立つことができなかった計算になります。この落差こそが、1960年代初頭の国際政治の混迷を鮮明に映し出す鏡となっています。
半世紀以上の時を経て開催された2021年の東京2020大会と比較すると、そのスケールと国際社会の構造変化が一層浮き彫りになります。
| 項目 | 東京1964大会(実績) | 東京2020大会(実績) | 編集部の見解・分析 |
|---|---|---|---|
| 参加国・地域数 | 93カ国・地域(※開会式参加のリビア含め94の記述も存在) | 205カ国・地域+難民選手団 | 脱植民地化と旧ソ連崩壊を経て倍増。1964年時点は冷戦構造下の主権国家形成期であった。 |
| IOC加盟国数 | 117カ国・地域 | 206カ国・地域 | 1964年は加盟国の約2割が不出場。政治的排除やボイコットのハードルが現在より格段に低かった。 |
| 選手総数 | 5,151名(女子678名) | 11,420名(女子約48.8%) | 女子選手の比率は1964年の約13%からほぼ半数へ。ジェンダー平等と競技拡大の歴史的変遷を示す。 |
| 実施競技・種目 | 19競技163種目(柔道・バレー初採用) | 33競技339種目 | 日本発祥の柔道が採用され、アジア開催の意義が競技種目の多様化にも強く反映された。 |

なぜ南アフリカは除外され、北朝鮮は直前にボイコットしたのか?
大会直前の1964年秋、国内外のメディアを大きく揺るがしたのが「南アフリカ選手団の除外」と「北朝鮮・インドネシアの開幕直前ボイコット」という二大事件でした。なぜ選手たちは東京の地を目前にしながら、あるいは代々木の選手村に足を踏み入れながら去らなければならなかったのでしょうか。
南アフリカ選手団除外の真相:アパルトヘイトと五輪憲章の決定打
当時、南アフリカ共和国は国策として「アパルトヘイト(人種隔離政策)」を徹底していました。スポーツ界も例外ではなく、白人選手と黒人選手が同一の代表チームを組むことや、国内予選で競い合うことすら禁じられていたのです。
この方針は、オリンピック憲章が掲げる「人種、宗教、政治的信条による差別の禁止」という根本理念と真っ向から衝突しました。当時のIOC(アベリー・ブランデージ会長)は南アフリカに対し、「人種差別を撤廃した混合選考を行うこと」を出場条件として突きつけました。しかし、南アフリカ政府は内政干渉であるとしてこれを完全拒否。結果として1964年8月、IOCは南アフリカの招待を取り消し、出場資格を正式に剥奪しました。同国が五輪舞台への復帰を果たすには、ネルソン・マンデラ氏釈放後の1992年バルセロナ大会まで、実に28年もの歳月を要することになります。
新興国競技大会(GANEFO)問題と北朝鮮・インドネシアの電撃帰国
開幕直前、大会組織委員会を最大の混乱に陥れたのが、新興国競技大会(GANEFO=Games of the New Emerging Forces)を巡る対立でした。
事の発端は1962年、ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に遡ります。開催国インドネシアのスカルノ大統領は親アラブ・親共産圏の外交路線をとり、台湾(中華民国)とイスラエルの選手団へのビザ発給を拒絶しました。これに対しIOCは厳重抗議を行い、インドネシアの資格を無期限停止処分とします。
激怒したスカルノ大統領は「IOCは帝国主義・西側諸国の手先だ」と猛反発し、自ら主導して1963年11月に第1回GANEFOをジャカルタで開催。ここに中華人民共和国やソ連、北朝鮮など約50カ国・地域が参加しました。これを受け、国際陸上競技連盟(IAAF)や国際水泳連盟(FINA)などの国際競技団体は、「IOC非公認の政治的大会に参加したアスリートの五輪出場資格を停止する」という強硬制裁を下したのです。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とインドネシアの選手団は、この処分撤回を勝ち取るべく、東京・代々木の選手村へ実際に入村しました。北朝鮮には、陸上女子800メートルで世界記録を保持していたスーパースター、シン・グムダン(辛錦丹)選手がおり、金メダルの大本命と目されていました。
しかし、IAAFとIOCは原則を曲げず、処分の解除を認めませんでした。開幕を目前に控えた10月8日、インドネシアが選手団の引き揚げを決定。翌10月9日には北朝鮮も「大会の政治的私物化と不当な差別」を主張する声明を発表し、急きょ全員が東京を離れるボイコット劇へと発展したのです。新潟港からソ連船で帰国する選手団の姿は、冷戦下のスポーツが背負わされた無念の象徴として報じられました。
ベルリンの壁を越えた「東西統一ドイツ」と初参加16カ国の夜明け
政治的緊張が渦巻く一方で、1964年東京大会は国家の分断や植民地支配の歴史を乗り越えようとする、強靭なエネルギーが交錯した大会でもありました。
冷戦の最前線で結成された「東西統一ドイツ選手団」の軌跡
1961年8月、ベルリンの壁が建設され、東西冷戦の緊張は極限に達していました。しかし、IOCの粘り強い調停により、1956年メルボルン、1960年ローマに続き、東京大会でも西ドイツ(FRG)と東ドイツ(GDR)による「東西統一ドイツ選手団(EUA)」の結成が実現したのです。
両国の妥協を成立させるため、極めて異例の措置がとられました:
- 国旗:ドイツ伝統の黒・赤・金の三色旗の中央に、白い「五輪マーク(五つの輪)」をあしらった特製フラッグを使用。
- 国歌:表彰式で国歌の代わりとして流されたのは、ベートーヴェン交響曲第9番の「歓喜の歌」。
- 選考方式:東西それぞれの代表選手が国内選考会で直接対決し、実力主義で出場枠を分配。
選手村では東西のアスリートが同じ宿舎で寝食を共にし、固い握手を交わす場面が目撃されました。しかし、政治的対立の溝は深く、東西統一ドイツ選手団としての出場は1964年の東京大会が最後となり、1968年メキシコ大会以降は別々の選手団として競い合うことになります。
独立の波に乗った1964年東京五輪初参加国まとめ
1960年の「アフリカの年」を契機に、欧州列強の植民地支配から脱した新興独立国が次々と誕生しました。1964年東京大会は、そうした主権国家が国際舞台へ鮮烈なデビューを果たした舞台でもあります。本大会で初参加を果たした国・地域は合計16を数えました。
- アフリカ地域:アルジェリア、カメルーン、コートジボワール、セネガル、チャド、ニジェール、マダガスカル、マリ、コンゴ(ブラザビル)、タンガニーカ(現タンザニア)など
- アジア・オセアニア地域:マレーシア(マラヤ連邦等から統合改編)、モンゴル、ネパールなど
- 中南米地域:ドミニカ共和国など
彼らが自国の国旗を誇らしげに掲げて行進する姿は、国際社会の脱植民地化と多極化の幕開けを強烈に印象づけました。

【入場行進の舞台裏】史上初の五十音順行進と現場関係者が目撃したリアル
1964年10月10日、昭和天皇による開会宣言が行われた国立競技場で、世界の観衆の度肝を抜いたのが選手団の入場行進でした。
近代オリンピックの規定により、先頭は古代五輪の発祥地である「ギリシャ」、最後尾はホスト国である「日本」と決まっています。問題はその間の並び順でした。通常はアルファベット順が採用されますが、組織委員会はオリンピック史上初となる「日本語の五十音順(アイウエオ順)」を敢行したのです。
ギリシャに続いて競技場に姿を現したのは「アイスランド」。続いて「アイルランド」「アフガニスタン」「アラブ連合共和国(現エジプト)」と続き、最後は「ユーゴスラビア」「中華民国(ROC)」「日本」とスタジアムを行進しました。
当時の運営ボランティアや通訳スタッフの手記によると、舞台裏は分刻みの緊迫感に包まれていたと証言されています。「聞き慣れない日本語の発音に合わせてプラカードを掲げ、行進順序を制御するのは至難の業だった」と振り返る関係者も少なくありません。観客席を埋めた7万5,000人の観衆は、整然と打ち振られる各国の旗と行進曲の調べに酔いしれ、第二次世界大戦の敗戦からわずか19年で国際社会の真ん中に戻ってきた日本の姿を肌で実感した瞬間でした。
一般に知られていない盲点とネットの誤解|「93カ国か94カ国か」と台湾呼称問題
インターネット上の言説や古いデータベースを精査すると、東京1964の参加国数に関して「93カ国」とする記述と「94カ国」とする記述が混在しており、混乱を招いています。この食い違いの背景には、ある「幻の出場国」が存在します。
リビア代表団の怪:開会式に参加しながら棄権した真相
記録のブレを生み出している最大の要因は「リビア」です。当時、リビアは選手団を東京に派遣し、開会式でも旗手1名が行進に参加しました。そのため「開会式参加国数」としては94カ国とカウントされます。
ところが、唯一エントリーしていた男子マラソン選手(スリマン・ファギ・ハッサン選手)が開会式直後に体調不良等を理由に出場を棄権・辞退。実際の競技に1人もアスリートが出場しなかったため、IOCの競技公式記録上は「参加国数:93」として正式登録されたのです。「93か94か」という論争は、開会式入場を基準とするか、競技実績を基準とするかの定義の相違に過ぎません。
台湾(中華民国)の「TAIWAN」プレート問題
もう一つの知られざる政治摩擦が、台湾代表団のプラカード問題でした。北京の中華人民共和国政府はすでに五輪運動から離脱していましたが、台湾の中華民国側は「中華民国(Republic of China)」としての代表権を主張していました。
しかし、開催国日本政府やIOCは妥協策として、入場行進のプラカード表記を「TAIWAN(中華民国)」と併記する形を指定。台湾側は「TAIWAN単独表記」に強く反発し、開会式ボイコットすら辞さない構えを見せましたが、最終的に括弧付き表記を受け入れる形で入場しました。今日まで続く国際スポーツにおける台湾呼称問題の原型が、すでにこの東京の地で先鋭化していたのです。
【プロの結論】国際政治の縮図から見出すべき歴史的教訓
「スポーツに政治を持ち込むな」という理念は、クーベルタン男爵以来のオリンピックにおける理想主義の旗頭です。しかし、1964年東京オリンピックの全貌を検証すると、五輪という舞台そのものが、国家主権の承認を巡る冷酷なパワーゲームの場であったことが浮き彫りになります。
南アフリカの除外は「人権と反人種差別」という普遍的倫理が国際スポーツ基準として確立される端緒となり、北朝鮮やインドネシアの離脱は、冷戦下のブロック政治と西欧主導秩序への反発がアスリートの夢を無惨に奪い去るという痛恨の禍根を残しました。
1964年大会が残した教訓とは、「スポーツと政治は完全に分離できる」という甘い幻想を抱くことではなく、政治的分断やイデオロギーの対立が存在する現実を直視したうえで、いかに選手たちの尊厳と公平な競争環境を死守するかという、不断の対話と制度設計の重みそのものにあります。
【東京 オリンピック 1964 参加 国】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:1964年東京オリンピックの正確な参加国数は93カ国ですか、94カ国ですか?
A1:公式記録としては「93カ国」です。開会式にはリビアを含む94カ国が入場行進を行いましたが、リビア唯一の代表選手が競技を棄権して出場しなかったため、IOCおよび組織委員会の競技実績記録上は93カ国・地域となっています。
Q2:北朝鮮の有力選手シン・グムダン(辛錦丹)選手はなぜ出場できなかったのですか?
A2:彼女が1963年にジャカルタで開催された非公認大会「新興国競技大会(GANEFO)」に出場していたためです。国際陸上競技連盟(IAAF)がGANEFO参加者の資格停止処分を科しており、東京五輪開幕直前まで交渉が続けられたものの処分が解除されず、北朝鮮選手団全体が開会前日に抗議のボイコットを行って帰国しました。
Q3:東西統一ドイツ選手団はいつまで続いたのですか?
A3:東西統一ドイツ選手団(EUA)として夏季オリンピックに参加したのは、1964年の東京大会が最後です。次大会となる1968年のメキシコシティー大会からは、西ドイツ(FRG)と東ドイツ(GDR)が別々の選手団として出場することになりました。
Q4:1964年大会で日本選手団の成績はどうでしたか?
A4:自国開催となった日本は、全競技に過去最大規模の選手団を派遣しました。体操男子の団体総合連覇や女子バレーボール(東洋の魔女)の金メダル、新種目柔道での活躍などにより、金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個(合計29個)を獲得。アメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位のメダル数を記録しました。
まとめ:激動の1964年から現代へ受け継がれる平和の意義
1964年東京オリンピックは、単なる日本の戦後復興アピールの場にとどまらず、20世紀後半の国際社会が直面した冷戦、人種差別、植民地解放という巨大な構造変化が凝縮された歴史的転換点でした。
全93カ国という数字の背後には、アパルトヘイトによって閉ざされた南アフリカの道、冷戦の確執により東京の土を踏みながら去った北朝鮮とインドネシアの無念、そして分断国家の垣根を越えて行進したドイツのアスリートたちの姿が刻まれています。五十音順の華やかな入場行進の軌跡を振り返ることは、混迷を深める現代の国際社会において、平和の祭典が果たすべき真の役割を再考するための決定的な手がかりを与えてくれます。 (出典: 東京 オリンピック 1964 参加 国(Yahoo!ニュース))